花火の担い手
琉球国では花火のことを「火花」といい、御冠船の時には「火花方」という臨時の部署が設置されました。1866年の火花方は、以下の構成で組織されました。
行政職は「火花奉行」を筆頭に、「筆者」(書記役)2名、「加勢筆者」(事務方)3名でした。
製作・実演は「火花仕手」(花火師)が3名おり、それぞれが自分のグループを従えていました。各グループは、細工に秀でた「弟子」が13名、「加勢筆者」が2名所属しました。弟子は主に百姓(農民に限らず、家譜を持たない「無系」の身分)が務めました。
「火花仕手」の3名について、紹介します。
<安里筑登之親雲上> 三代続く花火師の家系。祖父(1800・1808年)、父(1838年)に冠船火花仕手を勤めた。「掛床」を担当。
<渡嘉敷筑登之> 父親が1838年に火花仕手を勤め、自ら中国で火花の指南と秘伝書を授かる。「四輪車」 「玉火」を担当。
<屋比久筑登之> 中国で火花の指南を受けた。「大団羽」 「双龍」を担当し、冊封使の依頼で中国人のために那覇で再演した。