御冠船と花火
琉球国では国王が代替わりをすると、中国皇帝の使者を招いて「冊(文書)による新国王承認の儀礼」である「冊封御規式」を行いました。
明国時代には冠が下賜されたことから、冊封使が渡来する船を「御冠船」と呼び、やがて冊封の行事を象徴的に「御冠船」と言いならわして、宴に供される催しは「御冠船踊」と呼ばれました。
「御冠船踊」は琉球舞踊と組踊のほか、古来の輪踊りや船競争、棒術、獅子舞なども含み、「花火」もまた重要な催しの一つだったのです。
首里城の庭では花火を打ち上げられないことから、精緻なからくりに花火を仕掛けて国王や来賓の中国人を驚かせ、喜ばせました。
その花火の担い手は首里の士(サムレー)で、家の名誉を懸けた大仕事でした。
しかし、琉球国の消滅とともに花火の伝統も消えてしまったのです。

『中山伝信録』より「封舟図」